1977 木綿のハンカチーフ しあわせ未満 幸せの黄色いリボン 太田裕美



トップスターショー・歌ある限り 1977.04.28 #30
太田裕美、森田公一とトップギャラン、二谷英明、久米宏

41 comments
  1. この頃裕美さん自身はアイドルではないと思っていたようですがアイドル以上の容姿ですね(^^ゞ!
    ”ラリルレラロの歌=黄色いリボン”いきなり歌い出して音程が取れているのは流石だね♪☄

  2. アシスタントの久米宏さん、歌番組の進行はこれが初めてだったそう。

    ただ、メイン司会の二谷さんの関係で俳優さんをよくブッキングしていたそうで、大物映画俳優という事でお連れの人も多く、注文の多さなどもあって、久米さんは番組を仕切るのに手を焼いていたそう。
    こういう経緯もあって歌番組はもういいかと思っていた所に、
    年末を持ってこの番組が終了する事に。
    制作から「次の歌番組の司会も」と言われたので断ろうとしたものの、今度は生番組で時事性も加味すると説得され事で、「ちょっと面白そうだし、なにより生番組なら時間がくれば絶対終わる」と考え直し、引き受けたそうです。

    で、翌78年新春から「ザ・ベストテン」が始まり、久米さんの知名度は飛躍的に上昇。人気を背景にして79年には独立を果たします。もし断っていたらTBSからの早期独立も無く、ニュースステーションも実現していたかどうか分かりませんし、現在の報道スタイルもあったかどうか。

  3. 若夫婦がいた。子供はいなかった。不治の病で病院に長期入院していた妻は、医師から余命宣告を受け、生命(いのち)が長くないことを知らされた。妻は「こんな病気になって、ごめんなさい。ごめんなさい」と夫に繰り返し、繰り返し病室で詫(わ)びていた。夫は「そんなことはない。心配しないでほしい」と、その度(たび)に妻を慰めた。それは偽(いつわ)りのない事実だった。想い出したのは東京へ行って改めて彼女の女性としての優しさ・濃やかさに気づき、郷里に帰ってプロポーズし、結婚してからの日々であった。それらを想い起こす度(たび)に妻は自分にはもったいない人、限りなく優しい人であった。それはどんなに感謝しても仕切れない日々であった。

     臨終が近づいたある日、親族が妻のベッドの周りに集まった。死期は近かった。妻は目を閉じたままであった。妻を見守る中で、夫は床に膝を着き、一言一言、丁寧に伝えた。

    「天国に行って寂しいだろうが、僕が行くまで、それまで待っていてほしい。いずれ僕も行くことになるから。そして天国で僕を見つけても知らん顔をしてほしい。無視してほしい。僕があなたを見つけ出し、改めて出逢ったあの時のようにプロポーズしたいから」。

     夫はそう言うとベッドの中の妻の手をそっと握りしめた。その時、妻の手に握られていたものがあった。出して見るとそれは雪が降りしきる厳冬のあの深夜、誰もいないプラットホームで一人待っていた彼女に渡した「木綿のハンカチーフ」であった。妻はうっすらと涙目を開け、小さく頷(うなず)いた。そして静かに目を閉じた。夫はゆっくり、ゆっくりそのハンカチで涙を拭いてあげた

  4. バックバンドで本当に歌うテレビ番組なら見たいと思うけれどもね。令和の歌謡曲流行らないかな

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