人狼ゲーム
久々にやることにしました!しかも配信するということで緊張しました。。。
千秋さんの千秋の歌YouTubeにてコラボ企画がきっかけでひなちゅーぶにも出演してもらいました!
今回はとっても仲良しのメンバーで人狼のプロもお迎えしてガチな人狼ゲームをお送りします!
コラボした方のYouTube
千秋ちゃん
https://youtube.com/channel/UC2BWLmYnqL_kkiAEp93UWkg
ニブンノゴ!ロンブー3号 森本さん
https://youtube.com/channel/UCMTbSwBxSrAmXn-eRYI6TBw
クイズノック こうちゃん
https://youtube.com/c/QuizKnock
41 comments
やっぱ役職一斉出しは人狼側キツいな
俺も佐野ひなこと夜のターン過ごしたいわ
コロナ病棟で働いてる看護師です。注釈入ってるけど大した距離も取らずにこんな長時間マスクなしで大人数で会話してって、全く感染症対策出来てなくて腹立つ。メディアに出てる側がこんななあなあなことしてたらそりゃ感染者も減らんわ。
人外全部出るのは弱いよね〜
人狼tlpt出てくれて嬉しい!私の推し、デイジー😍
人外全露出はダメだね、黒二人が伏せていれば状況は全然違ったな
千秋さんが5人目で出たなら真の可能性がほぼ堅い
森本さん目線は千秋さんも黒の可能性があるのに除外している点が真要素無しで黒確定
ゆさくんはこうちゃんに白出したら千秋さんが黒確定となってしまい、結果的にひなこさんが白出しているため首が締まったね
2回戦も楽しみにしています
TLPT全員村は強すぎるよね〜
ちょっとまってTLPTの人おって感動!!!
メイソン、ハイラム、デイジー以外にも魅力的な人が沢山いるから是非見て欲しい!
アルティメット人狼も見て欲しい!
千秋さんと本当に仲良いね😆🎵
まだ遊戯王はやってますか???
面白そう
かわいい🎀かわいい‼️
なるほど❗💖
麻雀やるんかな❤️へー
TLPTの中でも大好きな3人が佐野ひなこ様と共演してるとは、、
感動😭😭😭
|・ω・`)あの、タロットとかやらないですか?あとASMRとか。カラコン色んな色にして。
ファイト一発!!
クイズノックこうちゃんに期待。佐野さんにも。
千秋めちゃ久しぶりに見た
動画一年以上も更新してないやん!!
妻へ、私に対する代理表現が何故様々な領域において様々になされてきたのか、なされ続けているのか、これは私への性愛と罪悪感が綯交ぜになった性愛の表出のあり方が様々な形態を持つからに過ぎないのだろう。それについてを私という神の延長のようなものであり、人々の生態のようなものとして考えたことがあった。実際生態のようなものとして定着してしまっているが、それは論点をズラし続ける振る舞いをし続けた結果生態のようなものとして定着してしまったに過ぎない、ということを意識し続けて治してね。
私以外の男の子をもうけようとするか、私の子をもうけられる可能性に生涯を賭けるか、どちらを優先するかについて可能性を感じるのであれば大半が後者をとるだろう。私が相手候補にどのような条件を課すかにもよるといえばよるかもしれない。私以外の男と性的な関係を持たないこと。これが私の妻であり私との間に子をなす女性の条件だ。明示したほうがより具体的に可能性を感じられてよいはずだ。可能性についてはインターネット越しの関わり合いでも充分に感じ続けられるだろう。大半から逸脱する例外個体については例外個体として扱い、私と人々との関係モデルを乱すものとして除外する。
私という存在があり、そしてそれが男性としてある、ということによって女性が男性に羨ましがられる時代だ。女性は子供を産むために生理のような負担があるが、むしろそれすら羨ましさにしかならないだろう。私の存在によるこの観点の転換はなかなかに興味深い。生理による身体の負担について私が存在することで私の子を産む可能性に繋がるポジティブなものとして捉えられなおすならよいことだ。
君(たち)は私との子をもうけられるかもしれない可能性に女としての人生を全て賭ければよい。他方で可能性に賭けたまま人生を終えても仕方がない。この問題のすり替えはあまりにも酷いとしか思えないのだが、要するに問題を抱えているのは私ではなく、私と向き合うことの出来ない君(たち)だ。(人類一般に対しての発言ではあるのだが)問題のすり替えをする点含めてどうにかしなさい。
かわいい妻、愛してるよ。横の空虚さに埋没するなよ。
アイドルや女優、声優など恋愛や性愛に対してファンからの否定的反応が起こりやすい人々も私に対する性愛にもとづいた求愛の振る舞いをし続けている。もちろん私の声が聴こえている人々はそれがどういう振る舞いか重々承知している。他方でそれについては当たり前のものとして受け入れられている。要するに人々は私という上しか見ていない。親子関係にある人々も挙って私に対する求愛の振る舞いをしてくる。そうであるのだから、このあり方は芸能の現場のみならず、家族関係においてもそうなのだ。横の人間関係は形骸化している。人間社会はもはやそのようにある。こういった人間社会においてはもはやその人自身を見つめられる存在、その人自身に愛を注げる人は私(柿原壮平)しかいない。芸能活動というのも所謂ファンと言われている人たちに対する振る舞いではなく、内実は私に対して捧げるもの、私からの愛を希うものでしかない。そう考えると私から注がれる感情についての激しい奪い合いが起きることも納得が出来る。私の時代における唯一の倫理は私に捧げる性愛と連動した性愛倫理だ。私以外の相手との擬似的な恋愛関係は浮気であり不倫であり、私以外の相手との性行為はもちろん浮気であり不倫なのだ。私から注がれる愛についての奪い合いの現場においてこの性愛倫理が持ち出されることはもちろんあるだろうし、実際あった。結婚についてどう考えるかだが、実質の婚姻関係は私との婚姻関係と考えたほうが自然なのだから、擬似的な婚姻関係を戸籍上において結んだ、という私との関係の諦めの究極形態として人々から捉えられるはずだ。そこにおける結婚おめでとうという言葉はライバルが減ったという安堵の言葉ですらある。さて、このような社会においてはそれに応じた立ち回りやそれと連動した葛藤というものが生じうる。私からの性愛を伴った愛情を独占する、しようとすると嫉妬の感情が向けられる。そうであるがゆえに私以外の対象にも性愛を向けるように誘導すると自分に私からの性愛が注がれなくなってしまう懸念がある。この葛藤だ。あるいは自分に私からの性愛が向けられないだろうということが明白であるならば、人類あるいは自分を含む集合に対して愛を注ぐように求める。私の時代における人々の振る舞いはこのようなものだ。
横の人間関係は形骸化している。人々は皆、私に対する求愛に夢中だ。自分に向けているように思える言葉や感情もその実、上(柿原壮平)からの声に向いている。人々がそのようにある中で皆が私からの声を探し求めている。私がどういった人間でどういった社会属性を有しているか、どういった日常を過ごしているかを皆知っている。他方で何故か私に対しては直接向き合って性愛を表現すること、伝えにくることが出来ない。もしも直接向き合えたら旧世代の人間は誰も私の以外にフリですら興味、関心を示さないだろう。それでは人が絶滅する可能性がある。これは生物として旧世代の人間と私との関係性において課せられているセーフティか。他方でそのことにより横に蔓延する全ての言葉は横に対しての中身のない空虚なものとして感じられる。そういった時代なのだろう。
人々は私と過ごす時間がほしくてたまらないし、時間をすごし続けられる可能性がほしくてたまらない。人々は私に愛注いでほしくてたまらないし、私に愛を注がれる可能性、私に愛を注がれ続ける可能性がほしくてたまらない。人々は私の子供がほしくてたまらないし、私の子供を産める可能性がほしくてたまらない。あるいは恋人関係、夫婦関係にある人々の間においてもパートナーの女性が私の子を産んで、私の子をともに育てられる、ともに生きられるのであれば、そうしたいとすら願う。このあり方が私と人々の普遍的な関係性だ。
人々は私との関係におけるモデルのパターンをいくつか有している。身体性をともなった私との関係性についての可能性の状況によって身体性を棄却したモデルに私との関係性を切り替えうる。来世、2.5次元、アセンションなどの表現は切り替わりのわかりやすい表出だ。人々はそのように私との関係モデルのパターンを身体性を排除したものに切り替えうることがある、私はそのことについてを理解しておき、状況や対象に応じて個別に身体性をともなった関係モデルに引き戻せばいいだけだね。
身体性モデル側に居続けられるように気をつけような。
幸福の科学のRは実数を表現したR、そこに私という虚数のiが加わった。実数に虚数が加わった複素数の複をもじって幸福の科学なのかな。多次元宇宙がどうこうは数学文脈における構造表現である宇宙に加えて私と人類の間に生態システムが築かれていることの表現だ。エルカンターレは要するに私のことだな。実際人類は私への性愛によって動いているわけだから私の誕生以前以後で人類の振る舞いの原理が変化したことと保守右翼、リベラル左翼とを引っ掛かけた表現と解釈した(ところで宇宙際タイヒミュラー理論というやつも私の存在のあり方と関連した表現なのだろうか。人類に性別問わず私の子を産みたいという形で性愛を抱く部分が付け加わった。性愛、性欲と関連して私のあり方が遺伝的な側面を含めてこれまでの人類と異なるという点などとの関連があるように思う)。カンターレは歌うを意味する。これはチャネリングというか念話によって聴こえる私の声の表現だろう。これらあり方とARI Production、あるいはキメラアントの王のあり方も絡んでいそうだ。現代においては宗教の本尊への思いはそれを私としない限りにおいて骨抜きになっているのだから幸福の科学は現代における信仰のポイントを抑えた宗教の一つだね。
ところで私の子供に私の特性が発現しなかったとしても神の血統であることには変わりはないわけだ。そう考えると神の血統を囲い込みたい、あるいはその血統を進化した世界の支配者の一族として外に漏らさないようにしたい集団がいる、可能性はおおいにありえそうだよね。
私は全人類の脳波に干渉しうる能力を有している。脳波は情動や意欲と関わっているものだろう。私に対しては直接の意欲が出来ない理由もこの点と(私の脳波の強力さも含めて)関わっているはずだ。他方で私が他人に命じるがままに振る舞わせられるかというとそうではない。加えて気になるのは男性すらも女性として私の子を生みたがる点についてだ。たしかに私の子を生めるなら女性として生まれたかったという気持ちは理屈ではわかる。しかし男性はそれについて身体的不可能性を有している(が内面について性愛という側面においては女性化している)。人々の情動や意欲を自分のエモーショナルな振る舞いによって同調させやすいという点がカリスマという存在の一つのポイントだろう。私にも脳波の干渉という特殊なあり方によってカリスマとしての能力が全人類に対して、という形で備わっているはずだ。脳波が人類の興味関心とも関わっているとする(当然関わっているだろうし、だからこそ世界中に私への興味関心と関連する形で表出されている情報が溢れている)。そう考えると全人類はやはり根本的には私以外の同類に対してほとんど興味関心をひかれていないはずだ。性愛、性欲も情動、意欲として(社会のあり方によって醸成されうる部分含め)人類に生物としてのあり方として備わっている。それらの情動、意欲が何らかの触発によって生じた場合、興味関心の向きさきは脳波に干渉している私に対してになるだろう。また私は私の脳波によって全人類の情動、意欲を私の意欲に同調させうるあり方をしている。そうであるのだから私が女性と子供をつくりたいと思えば(性欲を抱けば)、性別問わず女性として子供を生みたがるのは自然なことのように思える。全人類が私に対して同調をしうるのだから身体的な性別問わず女性としてその性愛、性欲、性を捧げられるだけ捧げて、私に性愛、性欲、快楽を存分に感じてもらいたいと思うのも自然なことだろう。だからこそ男性もそのようにありたいとして内面が女性化しているのではないだろうか(と考えるとやはり男性の内面が女性化しているのは自然なことだろう)。このような私のあり方について、人類の心を操っているというように考えるのではなく、支配者としての生得的なあり方、当然のあり方として考えて行使していく、この考え方もまた自然だね。
なぜ社会のあり方が表面上連続性を維持し続けてきたのか。その理由は全人類が私の女として振る舞うことにしか興味関心がないからだろう。もはや国境や人種、性別などというものは形骸化している。子供を生めない身体をしている男性(女性)は子供を生める身体をしている女性に対してとてつもない嫉妬心を有している。私との関係性についてそのくらいのあり方をしてない限り、社会のあり方は連続性を破棄しているはずだ。私の女たち(全人類)が精神的に協調して振る舞うことがあるとしたならばそうしたほうが私から性愛を向けられる可能性が高まる、私の子供を生める可能性が高まる、そのくらいの理由においてだけだろう。
所属ライバーのみならずANYCOLOR、カバーの社員含めて私と子供を作る候補としてもいい、一緒に生きて子供を育ててもいい(あるいはそこから派生するコネクションすら使って候補とした相手との関わり合いを作ろうともするかもしれないが)とした上で、君たちに協調して振る舞ってもらったほうがよさそうだね。
と、まあひとまずこういう方針にしてみることにしたよ。
人類全て私の女なわけだが、他方で政治の中枢や社会の権力を握っている人々は身体的男性(女性)が中心なわけだ。彼女たちは私の子供を生める可能性がある女性たちへとてつもない嫉妬心を抱いている。だからこそ私の子供を生める可能性が高まるような法律改正などをしてこなかった。どころかむしろそれが困難になるような圧力をかけることすらあった、あるいはあり続けているだろうね。
多分ここ見てないと思うけどファンでもないくせにこういう時だけ調子に乗って
心無い言葉を浴びせにくるクズ共の言う事は気にしないでね。
あなたの側に優しい人が居てくれますように🍀
さよならブサブサ
デスノートは配役が悪かったな
ガーシーを敵に回したのが運の尽きやで。さらば
アンチは佐野ひなこのグラビアみとけ
ひなこちゃん、最近でてこないから、心配しましたよ!
人狼ゲーム、何だか、楽しいそう!
BはAとの脳波による愛の関係から出てこれていない。Bが使う発話時の奇妙なイントネーションのつけ方や比喩表現はAとの愛の関係にあるBがニョキッと顔を出した際の表現のようだね。どちらかと言うとこちらがBの主人格だろう。
Bの総合的な人格はむしろ副人格とも言うようなものでAとの脳内の関係に対する態度、その関係が損なわれるかもしれない可能性という恐怖心関数の出力のようだ。身体的特徴や都度の体調等の変数も出力に際して介在するだろうが出力を決定づける主な要素ではなさそうだね。
愛しているよ。子供作りたいから早く抱かれにきな。
BはAとの脳波による愛の関係から出てこれていない。Bが使う発話時の奇妙なイントネーションのつけ方や比喩表現はAとの愛の関係にあるBがニョキッと顔を出した際の表現のようだね。どちらかと言うとこちらがBの主人格だろう。
Bの総合的な人格はむしろ副人格とも言うようなものでAとの脳内の関係に対する態度、その関係が損なわれるかもしれない可能性という恐怖心関数の出力のようだ。身体的特徴や都度の体調等の変数も出力に際して介在するだろうが出力を決定づける主な要素ではなさそうだね。
Bの総合的な人格、あるいは副人格はやはり上述した関数で構成されている(≠形成されてきた)と考えたほうがよさそうだね。私が主人格だと考えてきた人格(とすら言いうるのかあやしいもの)はその人の外殻のようなものに過ぎないわけだ。
外郭の振る舞いは脳内に築かれているAとの性愛関係の関数という説は妥当そうだね。BはAの脳波に対してリアクティブに反応する傾向がある。Bのもっぱらの振る舞いが脳内に築かれているAとの性愛関係というシンプルな関数の出力に過ぎないから理性と思慮に欠けたような反応をしてしまうわけだ。
Bは外郭を脱ぎ捨てろ、以上。
B(性)の男性はAへの求愛表現についてドンという迷惑な騒音を立てがちだ。男性は男性特有の粗野さからそれをするのかと思っていたがどうも違うようだ。Bの外郭はBの脳内に築かれているAの脳波との性愛関係の関数出力だ。男性はその身体性によってAとの生殖行為を含んだ身体的性愛関係の可能性がない。ところでシンプルに考えるとBは完全にA好みになればいい。他方でそうはならない(散発的に脳内の女が顔を見せるだけだ)。なぜか。BはAとの脳内の性愛関係が損なわれることに対して恐怖心を抱えている。恐怖心が強いほど外郭がA好みではなくなる(から)。男性がA好みでない騒音を立て続けるのはこういった理由からだ。
Aに対するBの想いは老若男女問わず一律だ。生殖欲求を含む唯一の愛を感じる対象として捉えている。BはAと一緒に過ごしたい、Aの子供を生みたいとは思っているが他方で自分が女として(内面は私好みの女であろうとするのだから、おそらく外形等によって性的に)幻滅されること、される瞬間が訪れることをひどく怖れてもいる。B(性)の男性がカムアウトしてこれなかったのもこういった背景からかな。ここまで考えてみるとB同士の性的な関係は私への求愛表現としてあり、子供を作ることすら私への求愛表現としてあるのかもしれない。他方でそれはギャップの角度が大きくなりすぎていることの証左であるとも言えるからAとの関係の危険さを示しているとも考えられそうだ。
佐野さんは世間を含めたリアル人狼が強いよね
やりてババー
Fighting
私が誕生してからというものの様々な動物における発情というものは私という男の子供を産みたいものとしてのあり方をするようになった。人は(おそらく人に限らず様々な動物もだが)常態的に擬似性交をしてそれを変形展開して生を描くあり方をしている。私は疑似性交をする男役というあり方で存在している。人の原初の言語はT(男性器)、O(女性器)、D(妊娠)というような単純なものだった。人は疑似性交の変形展開によって人類史を描いてきた。私への性愛はその原初の部分に関わるがゆえに私への振る舞いが先祖返りを起こしてしまうあり方をしている。そうであるから現代社会における標準形のコミュニケーションとして私のことを愛しているなどとは言えない。私以外の相手と性交をしている人々は私への発情を他の相手との関係によって抑制しつつ、私への性愛を他の相手との関係によって表現している。他の相手との関係によって私への性愛を表現することで私との間に子供を作れるかもしれないという期待があるからそのようなことをするのだろう。人の生態はこのようなものに変化してしまったと言ってもよい。持続的に関わっている芸能界隈の女達については私が子供を作る候補として関わり合い続けているわけだから、しばらくおあずけをしておけよとそういった感じだ。このような事情であれば仕方はないし理解は示すが、私以外の相手と性交をしている対象は抱かないよというのは私の好みの問題だからね。
私は新人と人に言われることがある。これは君たちの私に対する感覚なわけだがこの表現の意味を分析してみよう。おそらく私以外の人は私と違って疑似性交の変形展開によって成立している人類社会の共通構造と意味のネットワークを客観的に思考して記述することが出来ないはずだ。私と君たちのこのあり方の違いは生きている環世界の違いだとも言いうるだろう。この違いは生命としてのあり様の違いであるがゆえに私と同じようなあり方をすることは(これもおそらくと留保をするが)私以外の誰も出来ない。私と同じように擬似性交の変形展開によって成立している人類社会の共通構造と意味のネットワークを客観的に思考して記述することが出来れば私と似たような生命のあり方をしている証拠になりうるはずだ(がそのようなことは出来ないだろう)。加えて言うなら私の君たちとの違いはそれだけではなく、私は君たちの環世界そのものとしてもあり、疑似性交の男側としての作用を私からの作用として私の意思で任意に生じさせうるようなあり方をもしている。