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甲斐源氏一族
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#日本史 #鎌倉時代 #鎌倉殿の13人
48 comments
天皇子孫はゴミしかいない。
武田は天皇子孫と言ってるが秦子孫だ。
コンバンワ〜 初コメです。
地上波を見る環境がなく、残念ながら大河は視聴できてないんだけど、(TVerで民放ドラマは見てんだけど…)解説見てるだけでも面白さが伝わって来ますゼ👍
個人的には太平記が好きなんだけど、新田義貞も足利尊氏と同様に源氏の家系でしたよね。そちらのルーツも解説頼みます。
武田も一度滅ぼされていたとは初めて知りました。幕府と仲良く戦国時代まで続いていたと思っていたのですが、鎌倉幕府はドロドロしてますね。そこが面白いのですが。
とても面白くわかりやすいのでチャンネル登録しました。戦国さんのおかげで大河のわからない部分まで理解できるのでより楽しめます。
一つお願いなのですが…
少し先の展開までお話しされてるところがあるのでネタバレなしでお願いしたいです。戦国さんにとっては当然の史実なのかも知れないのですが、知識のない私にとってはネタバレになってしまいます泣
これからも楽しみにしております。周りにもおすすめしますね!
源氏や武田や色んな流派が枝分かれしてるんですね〜。
私も先祖を辿れば有名な武将にたどり着くかな〜?
歴史も学べて面白いのですが、二番煎じ感が凄くて痛いので、最初の演出とか消えてもらえませんか?
内容とか話し方とかは好きなので改善して下さい!
自分の身内を殺した 者は滅亡 頼朝や秀吉
戦国時代に信玄公が佐竹氏に義光流の本流は此方!と言った処、ウチの方が長男だからネ!と言って黙らせてしまった。と言うエピソードが有ったとか…
毛利氏と戦った安芸武田氏も此の流れなのでしょうか?
室町初期に武田氏から別れた、栗原氏から母方清和源氏流れの及川氏に曾祖母が嫁いでいます。
もう一つの流れの曾祖母が、小田原曽我家から嫁いでいます。
やはり先祖の名前が出て来ると楽しいです。
解説を聞いているときは、勉強になる~と理解しているつもりが、実は、右から左。加齢のせいにしたいところです。歴史の成績は自慢できるほどだったんですけれど、所詮は試験勉強でした。いくつかの大河をみてきて、つくづくと家を存続させることが一番だったことに気づきました。今頃っと思われると思います。コメントされている方々も知識豊富で勉強になります。
武田家といえば山梨のイメージ強かったけどルーツは茨城だったんですね!
勉強になりました
武田信玄が源氏とは知ってましたがこんな流れだったのですね❗初めて知りました❗(*^_^*)良かったです❗☺
これを知ると、平清盛は凄い奴だなと思いました。
陸奥国・・・デカ💥😳
わぁ!おっきい!
日本の歴史は血筋で見ていけて、しかも、あちこち、時と場所を越えて繋がっているところが面白い。
今回の話しは、面白かったです。
武田信玄な源氏の血が流れてたんですね〜。はてさて当時本人は源氏の自覚が有ったんでしょうか?
分かりやすかったです。甲斐源氏も滅ぼしていたのですね。
大変参考になっております。ただ、用語や表現については気になる点があります。例えば、「流派」は後で「系統」とも表現されていますが、「家系」がいいかと。「あだ名」(八幡太郎)は、「通称」又は「別名」。武田信義一族の「滅亡」は庶子とはいえ子息が家名を存続させたので過度な表現であり、この場合は「失脚」「衰退」あたりが妥当かと。後代の勝頼&信勝父子こそが正しく「滅亡」ですね。それでも、信玄を尊崇していた徳川家康が五男の信吉を武田家の家名存続にと企図しましたが、早世したため再興できなかったようです。「嫡流」についてはかなり丁寧に説明されていると思います。プラス自論としては、武力や財力を持ち武功を上げ繁栄した者や家系が結果的に「嫡流」となったと考えます。本来なら、系図を掲示されているように清和源氏の中では頼光家系の摂津源氏が「嫡流」だった筈なのに弟の家系がそうなったことなどが典型例と言えます。尚、源氏といっても先日の大河で出て来た佐々木一族は宇多天皇を祖とする珍しい宇多源氏の家系であり、彼らは頼朝とは関係の超薄い、まったく別の「嫡流」になるのではと思います。
平家は退却したのではなく
朝廷にやり返すを止められていたから船に退却して源氏にいつでも壊滅させられるんだぜ?って図にしたとか、、
戦国大名の武田も佐竹も足利もルーツを辿れば皆遠い親戚ですね
頼朝が源氏嫡流だというイメージは鎌倉幕府公式文書の吾妻鏡による主張であり、当時は源氏系譜の一族がそれぞれ本家を名乗り、各地で頼朝のような旗揚げドラマが繰り広げられていたでしょう。
先祖が一緒でも世代が4~5代下れば他人と一緒なのは現代でも同じ。
頼朝に呼応して動き始めたと思われてますが、誰よりも先に本格的に挙兵して上洛に成功したのが源義仲であり、京都での傍若無人がなければ、歴史上初の武家政権である幕府は木曽で発足していかも知れません。
武田信光は庶子だったけど、正妻は源(新田)義重の娘であり、信光と正妻の義重の娘のあいだに生まれた、武田信政が、信玄、勝頼の先祖にあたります。
武田信光、信政親子は、承久の乱で活躍し、安芸国も与えられていますから、安芸武田氏も、信政の子孫にあたります。
八幡太郎義家 (河内源氏)
加茂次郎義綱 (義光の陰謀で首を切られる)
新羅三郎義光 (甲斐源氏)
実は、毛利家の安国寺AKも武田氏なんだ。鎌倉時代に分家した安芸武田氏だが。
これはひどい、地政学的に武田信玄の天下統一は、ほぼ詰みですねぇ….。
なるほどなぁ、
確かに、茨城県ひたちなか市の方に、武田さんの名字と家紋に武田菱使ってる家が多いのは武田源治が由来なんですね。納得
幕末時代の水戸藩士に武田耕雲斎がいますが、彼も縁戚なんですかね?
いずれにしても、ロマンだなー
頼朝が逃げて
隠れた洞窟を「ししどの窟」と紹介してましたが湯河原にあるのは「しとどの窟」
が正しいと思います。
髪の毛切った?
義光と対立した義国の子孫が、足利尊氏と新田義貞なんですね。
もしやと思いましたが・・・。
源氏も平家も武田も、みんな天皇の子孫だったのか、、、つまらん
日本も所詮は大昔の血筋と血族の支配社会か
頼義と義家は炎立つに出てきたよな
逸見(へんみ)と読みます
武田信玄と佐竹義重のどちらが義光の嫡流か手紙でレスバトルした事件もそのうち取り上げてほしいですね
なるほど ガッテン!
私は名字が甲斐なので武田信玄の末裔なのてわ❓
新田二郎と言う作家を知ってますか? 旧諏訪市出身の有名な方です。 その息子さんは、やはり作家の藤原てい、さんと言う人で、現在は、数学者をされてる人です。 その新田二郎に、よれば、元々彼は富士山などを観察する気象台に、努めていた人です。 作家に、なったきっかけに、なったのが、故郷の諏訪と言う所がイヤに気になったのですね。 ご承知の通り、武田信玄の愛妾は、諏訪神社の娘湖衣姫で、その後勝頼を産んでいます。とても興味を持って調べているうちに作家となる訳です。 地元だから余計に興味津々だったのでしょう。 信玄の人物像を知りたければ? この新田二郎さんの信玄に、関する書物を読んだら凄く!現実味がわくと思いますよ、 それによれば、信玄の末裔と名乗る人は、世界中に、ごまんと!いるらしいですよ🍀 本当の末裔は、 信玄の次男で目が悪く坊主に、された竜芳りゆうほう、です。 僧侶と言っても流派によっては、妻子が持てたそうです。その子孫が武田信玄の直径です。 電子本もありますが、図書館で読んでみるのもいいかもしれないですよね❤️ 個人の勝手ですが。 日本と言う国が何故天皇制を築いたか?不思議な人も多いでしょう? ですが、歴史を知れば知るほど、何とも統制がとれたシステムだときずかされます。 と言うのも、誰でもお金を沢山稼げば権力を持てますよね!お金の力って凄いんです❗ なので、頑張れば誰でも天下をとれる訳ですね。 そこで、天皇を置くことで、金💰️では天下をとれない❗と言うシステムを遥か2000年前に築いたのです。凄過ぎ⁉️ませんか! 藤原氏は、天皇家に嫁ぐ嫁関係です。平氏、源氏は、確かに天皇家の子孫と言うか世の中に出された多くの子供達です。その子孫の役目として、…日本の各地に、今で言えば知事ですね😁 歴史がキライ😡⚡と言う人は、多分、年号ばかり覚えようとして好きになれなかった⁉️のではないでしょうか。民主主義の日本での、これからの国家の成り立ちなどを未来にどう生かすのかが非常に、問題となっているのではないでしょうか。心配性、…自称、
武田信光さんありがとう
甲斐源氏含めて関東には源氏が多い荘園の守護として都落ちしてきたのだろう。これは平氏も同じで足利新田と言った源氏も栃木に居ついてる常陸の佐竹も源氏。
私の住まいの近くに、武田氏発祥の地として、武田氏館、武田神社があります。因みに茨城県です。山梨県に行った理由が、わかりました。
自分はたどっていくと小笠原氏の傍流に当たるとか
新潟県旧中条町の偉人に板額御前という、木曾義仲に仕えた巴御前に並ぶとされる女武将がいます。
彼女は平氏の一族で、建仁の乱で鎌倉幕府との激突の際、鳥坂城の戦いで奮戦して結果的に敗れ幕府に捕らえられます。
その後、武田信義の実弟である浅利義遠に見初められ、将軍源頼家の許しを得て浅利の妻に迎えられて一男一女を授かりました。
後に甲斐国に残った子孫は、武田氏の重臣として仕え、武田滅亡の後は徳川家康の重臣で東国無双と呼ばれた武人、本多忠勝に仕えました。
血管切れそうなオープニングがすばらしい。一歩か二歩前に出てほしい気がします。加油
系譜図見ながらの解説分かりやすくて良いですね。
源氏の代表的各氏の説明聴きたいです。
例えば、村上水軍の村上氏も源氏だと聴いたのですが、解説頂けると嬉しいです。
有難うございます。
戦国時代にはないもうひとつの歴史の魅力ですね!
関東管領上杉氏もまた然り
甲斐源氏のルーツ、実に良かった。青天をつけの渋沢栄一さんの先祖はこの中に出てきました逸見の出であると知り逸見又太郎義重、渋沢又二郎義継について、更に知りたいと思っています。
機会がありましたら宜しく、お願いします。
源から武田にかわった経緯は、信義が
武田王(ヤマトタケルの弟)の元居所であった武田八幡宮にて元服したことから
その神社の名をいただき、武田と名乗ったと思っておりました。
それはそれとし、どの時点で武田となったのか?自分なりにも精査したいとおもいます。
貴重な情報ありがとうございました。
因みに私は、甲斐武田家の末裔です。